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ジャーナリストと地域プロモーター/「ザ・ページ」の意味を考える(4)

このシリーズの最終回「『情報はただ』はやはり異様/新たなビジネスモデルで転換を」が掲載されています。ここからご覧ください。

●メディアという言葉を再定義

奥村:一般論で言えば、僕らも含めて、特に新聞、テレビなどのオールドメディアにいる人たちはメディアという言葉をとらえ直さなければなりません。それはどういうことかと言えば、従来、メディアといえば、その会社の記者として取材し、それを発表する、垂直統合の形を言っているわけです。

河北新報の記者は河北新報のために記事を書く。読売新聞の記者は、読売の新聞のために記事を書く-こういうのは、たぶん、インターネットの世界でも、起こりうることではありますが、その場合、乱立するだけです。ページを作り、サイトを作る手間が以前に比べて少なくなったとはいえ、手間は手間です。

大事なことは「題字」を持つことではなく、自分の届けたい情報がいかに効率よく、届けたい人に届けられるか、ということです。そこさえ実現できれば、自分の署名さえあれば「ザ・ページ」に出ようが、ヤフーに出ようが、問題ないはずです。

それなのに僕らのような古い世代が、それはメディアとは呼ばないだろうという風に言ってしまうところに、メディアの定義に対する齟齬があるような気がします。今やメディアの垂直統合が重要なのではありません。メディアにとっては、発信力そのものが命です。だから、インターネットに限る必要もありません。紙に書いて、それがより効率的に届けられるんだったら、紙を出してもいいんです。

●「地域プロモーター」はジャーナリストではない。

奥村:「市民ライター」の講座などが人気ですが、その理由は、日本語はだれでも書けると思われているからです。日本語なら誰でも書けて、情報発信できると誤解されているふしがあります。でも、それはジャーナリストではなく「地域プロモーター」と言った方がいいと思います。メディア的な活動ではあるけれども、ジャーナリズムではないかもしれません。

たとえば、自分がかかわっているNPOの情報を、自分で発信したいと思っているとしたら、それは記者でもジャーナリストでもなく、「地域プロモーター」という仕事と考えた方がいい。ジャーナリストの仕事を、この150年間、変わらなかったものとして位置づけるとするならば、まさに、NPOの資金の使途や活動を客観的な立場で取材し、追及することも含みます。

「ジャーナリスト」として地域の情報を発信するには、まず客観的な立場が重要です。地域の動きを客観的に把握し、評価を加えたうえで記事として書き上げます。その結果として、彼は地域のプロモーターとしての役割も果たすかもしれないけれども、ジャーナリストである以上、第三者の視点を入れて、価値あるものを発信していることが重要です。

一度だけ記事を書いてくれた人を含めると「ザ・ページ」のスタッフライターは50人とか100人とかいるはずです。正確に数えたことがありません。増やしたいとは思っていますが、実際は、紙のメディアには書くけれど、ネットには書かないという人も多い。

スマホの登場で、今後、広告の単価はどんどん下がります。今以上にネットメディアに書く場合の原稿料が上がることは、ないとは言いませんが、すごく難しいのは実情です。ネットに書く場合の原稿料は紙メディアの何分の一なので、それでは生活できないと言う人も中にはいます。でも、その点だけ問題ではありません。
●志ある地域ジャーナリストがどれだけ育つか?
奥村:もう一点、地域で活動するスタッフライターのような、志を同じくできる人たちをどれだけ増やせるか重要です。地域に対する帰属意識や、地域をどのようにしたいかという考えを持っている人たちです。たとえ、安い原稿料でもいいから地域のために頑張りたいという人がいれば「ザ・ページ」はその人たちの発表の場として頑張って行けると思います。原稿料の問題だけではなく、発表の場としての影響力をどう考えてもらえるか。それらがライターさん一人一人の志とどう一致するかです。

実際、本業を別に持って、情報発信は、ほぼほぼ無料でやるという形、そういう時代になっています。その傾向は現実としてあるわけですが、一方、理念としてのジャーナリズムを考えたときに、たとえば、一部上場企業の社長が業界はこうあるべきだという原稿を、どこかに出したとします。「ザ・ページ」でも、日経でもいいとして、しかし、それをジャーナリズムと呼べるでしょうか?それはポジション投稿を含んだ意見の発信であって、理念としてのジャーナリズムではありません。

ジャーナリズムの活動そのものはどんどん変化していくけれども、どこまで理念を変容させていく必要があるのかという点は重要です。地域の情報発信も同じことで、地域農業にかかわっている人たちが情報発信をすることが、それだけで果たしてジャーナリズムと言えるでしょうか?

地域のプロモーションとジャーナリズムを分けて考える必要があります。そこには正解がまだ見えません。情報を発信したい人が世の中にたくさんいることも間違いありません。そこに対する受容度をどこまで持つかで、これからのいわゆるインターネットのメディア(ニュースではなく)の作り方は変わってきます。

その点が、最初に申し上げた試行錯誤の部分です。僕は新聞社にいたことしかないので、情報の扱い方は新聞の流儀にのっとるんですけれども、僕がやってきた仕事というのは、自分が気になったり、世の中が気になっている人たちに 取材をし、嘘・偽りはないか、宣伝に使おうとしていないかなどを検証したうえで書くことです。第三者的な立場としてやる仕事でした。

●論評とジャーナリズム

奥村:たとえば読売新聞の「地球を読む」などの寄稿もの、オピニオンものがあります。社論に沿ったオピニオンだけを紙面で表明するということは、理念としてのジャーナリズムに合うのかどうか、そこはまったく分かりません。

一方で、新聞の役割には速報と論評の二つがあると言われてきて、速報の部分は特に疑問を持たないけれども、論評の部分に関しては、意見を持つことに対しての是非というのがあって、やりすぎるとメディア自体が色を持ち始めます。それはたとえば産経新聞、読売新聞なら右で、朝日、毎日は左でという具合です。

でも、インターネットのユーザーは色のついた情報を欲しいとは思っていません。本当のことが知りたいと思っているわけです。論評であれ、なんであれ。オピニオン、意見の表明よりは、何が起こっているのかという、解説の方が中立色が強いのではないかと、何となく思っています。

もちろん、解説も、どちらの立場から解説するかで、色がつくということは多少、覚悟したうえで、ストレートに安保法制賛成、反対というよりは、安保とはどういうものかを、多少、ポジションの差があるにしろ、そういう解説に徹する方がいいんだろうと思っています。

(次回に続きます)

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