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あらためて「市民メディア」/関本英太郎さんに聞く(上)

新聞やテレビなど、従来型のマスメディアの方向性を探り、地域とメディアのありようをイメージするには、いわゆる「パブリックアクセス」(市民の情報発信力を高めるため、メディアに対する市民のアクセスを保障する仕組み)への関心とともに日本でも取り組みが進んできた「市民メディア」についても振り返る必要があるようです。「市民メディア全国交流集会」の運営にかかわり、市民が主体となるメディア活動に自ら取り組んできた関本英太郎さん=東北大名誉教授=にインタビューしました。関本さんは「市民メディア全国交流集会(メディフェス)」の、5人いる世話人の一人です。

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関本 毎年、各地で開いている「市民メディア全国交流集会」では、活動規模は小さくても、面白い活動をやっているメディアが集まる。大阪大会のときには西成を地盤にして活動している人たちが参加して、地域の声を昔のかわら版のような形、ガリ版で月に1回作って、西成住民とコミュニティーを作っていた。ぼくはこれに参加したのだが、紙面レイアウトが西成の街並みをシルエットにしているなど、地域性を感じる。

メディフェスに参加する活動には、自分たちの住んでいる町に小さな本屋さんを作ろうといった取り組みもあった。多くは小さなメディアづくりだ。メディアコミュニティーと呼んでもいいだろう。そうした取り組みを通じて、一つのまちづくり、地域づくり、人と人とのつながりを作っていく活動だ。まさに市民メディアだなあ、と思っている。

一方で、「市民」はもう使いたくないという感じもある。「市民メディア」の言葉でひとくくりにするのは土台、無理なのではないかと思うようになった。

「市民」という、フラットな人たちが全国にいることを前提に、いろいろな市民メディアが連携、協働できないか、と考えていた。しかし、実際は、そういう前提自体にやや無理があるのかもしれない。むしろ、サンフランシスコの隣町オークランドにあるハイパーローカルメディア「オークランドローカル」のように、地域に特化したメディアがあって、さまざまな問題をそれぞれのローカルメディアを舞台に解決の道を見出していくような形が考えられるのではないか。

だから「市民メディア」というよりも、「地域メディア」と表現する方がいいように思う。地域それぞれに個性があるので、「市民」という、統一的な総称よりも、それぞれの地域地域で個性を発揮するような形が盛んになっていけばいい。全国交流集会では、それらの活動体が、文字通り交流する場になればいい。

佐藤 全国交流集会はもともとそのようなものだと思っていましたが・・。

関本 もっと一体的に目に見えるような、力のあるものになってほしいというぼくの思い込みがあったのかもしれない。交流集会自体の規模が大きくなりすぎて、互いの顔が見えなくなってきたところもある。そんなつながりは必要ないと言われれば、それまでだが。「市民メディア」が全国的に盛り上がり、燃え上がっていたときに、いろいろな地域で取り組みが広がったけれど、時間がたつうちに頑張りすぎて続けられないケースも出てきてしまった。

佐藤 市民メディアというと、イコールSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のような感じで盛り上がった全国交流集会もありました。

関本 いや、そうではない。なんでもいいんだ。地域の人たちが何らかの発信したいものをつくり、自分たちにふさわしいメディアを使って、問いかけていくのが本質だ。ネットもあれば、ミニコミ紙的なものもある。今、一番活躍しているのはコミュニティーFMだよね。

ことし11月に沖縄・読谷でやれないかと楽しみにしている。沖縄の人たちが手を上げつつある。ひと口に「市民メディア」といっても、いろいろだし、時間がたつうちに、内部的な問題をうまく処理できなくなっているケースもある。関係者同士、互いに好き嫌いを言い出したりすると、難しい事態になる。この種の問題は、自立的、主体的な活動にはつきものなので、もっと広い視点で大きくとらえないといけない。

いろんな経緯があって世話人のようなことをやっているが、もともと大学の教員がしゃしゃりでるべきではないと思っていた。実際は、今の世話人はみんなが大学の現役もしくは教員OBなんだ。
次回に続く)

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