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あらためてリテラシー

熊本県や大分県を中心に起きている大地震の様子が刻々とさまざまなメディアを通じて流れてきます。悪意や偏見に基づく情報や、「キュレーション」の名で行われる確認不足のままの拡散をどう見分ければいいのでしょう。ソーシャルメディアの構造自体にも問題は潜んでいそうです。とりあえず、自分からの発信を控え、ソーシャルメディアを通じて大量に目にする情報を批判的に読みながら、その信頼性をあらためて確認する作業を続けています。そのチェックに耐えられた情報だけをクリッピングするうちに、何かが見えてくることを期待しながら・・。

熊本・大分などの地震は、最初の印象とは異なり、新しいタイプの災害の様相を強めてきました。正直に言えば、最初のうちは、5年前の経験を通してながめる気分でした。しかし、その後の展開を見ていると、ひょっとしたらあの経験は通用しないのではないかとさえ思います。

そんな中で、インターネットで個人的につながっている人々の体験が直接に伝わってくるケースがあります。ソーシャルメディアが普及する前から、長い時間をかけて、少しずつ互いに確認し合った関係です。

テレビやソーシャルメディアによる情報の拡散を目にする感じとはかなり異なります。情報に接したときの感触が違います。目と目を合わせながら言葉の一つひとつを確認するようなニュアンスです。お名前は分かるけれども、一度もお会いしたことのない人が相手ではないし、やたらと言葉は多いけれども、どこのどなたであるか分からない人でもありません。単なる根拠の孫引きの繰り返しでもないのです。

もちろん、少しずつ互いに確認し合った関係に基づく場合でも、間違いや勘違いを含みます。間違いや勘違いに気付いたときに、冷静な意思疎通の中で互いに修復を試みることができる点が一層、重要です。

インターネットを仕事にして以来、「双方向性」の可能性や魅力を重要なポイントとして考えてきましたが、いつの間にか、騒々しくて、過剰な、時には当てにならない情報の拡散を「双方向性」を達成するための重要な要素と勘違いしてしまったかもしれません。ちょっと憂鬱です。

 

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