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政治を語る場をつくる/発信は「ありのまま」に(2)

urushida_repo_p_02 国政選挙の街頭演説を動画で撮影し、インターネットで配信する活動は、漆田義孝さんが所属しているNPO法人メディアージのネット動画企画「まつりごと―政治を身近にするUstream番組」=写真=の一環です。Ustreamというネットサービスを利用しています。

このサービスを採用している理由の一つは、撮影した動画を編集せずにそのまま(若干の時間差は生じるが)流すことができるためです。見栄えや仕上がりの質を重視する観点から、コンテンツの編集にエネルギーを費やす考え方もありますが、「まつりごと」の場合、政治について話し合う場を作ること自体に価値を見出しているように見えます。

実際、漆田さんも、「配信」「中継」「番組」という言葉をよく使います。配信の結果、どれぐらいの人がその番組を見たか、といった数字をまったく気にしないわけではありません。可能ならば、一定の収入を伴う事業化を目指しているのはもちろんですが、企画、取材から「まつりごと」のコーディネーター、裏方など、多様な役割を引き受ける漆田さんからは、政治について自由に語り合う場づくりへの思いが強く伝わってきます。音楽で言えば「ライブハウスのような」と水を向けると、漆田さんからは「17世紀に発達した英国のコーヒーハウスのような場所」との言葉が返ってきました。

東日本大震災を契機に、インターネットを活用しながら限りなくメディア的な振る舞いを続ける漆田さんですが、新聞社などのマスメディアが長年、大事にしてきたスタイルとはかなり異なります。ほぼ20年前、既存のマスメディアがインターネットを初めて手掛けた際、オンラインに関する技術やコンテンツデザイン、運営スキルなど、あらゆる点で経験値に乏しかったにもかかわらず、初めからページビューや訪問者数ありきの「広告モデル」でした。漆田さんが所属するメディアージの「まつりごと」の動機は、その種のアプローチとはまるで異なる位置から始動している点に注目したいのです。

ソーシャルメディアが発達し「個人」の意味は大きく変わりました。メディア世界のありようを考えるときに「個人」の持つ意味をしっかり踏まえたアプローチは必須でもあります。にもかかわらず、大量の情報を一斉に発信することでよしとするマスメディア的感覚の残滓のようなものが色濃く残っています。ネットが本来的に持つ危険な側面を、もっぱら強調することで、無難な方向を模索する空気も相変わらず根強い。特に地域に由来する新聞メディアの多くは、デジタル化とインターネットを基礎とするメディア環境への想像力を失いつつあるように見えます。その現場では、自らを次代につなぐための、どのようなメディア論が生まれようとしているのでしょうか。
(次回に続きます)

*前回のエントリー「漆田義孝さんのメディア活動/発信は『ありのまま』に(1)」はこちらからご覧ください。

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